群馬大学大学院理工学府分子科学部門
旧・生物物理学研究室
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生き物のしくみから学べること
 周囲を見渡してみると、さまざまな生き物がいます。花の間を飛び交うミツバチでも、地面を這い回るアリでも、それぞれに独自の行動をしていて、そのしくみはどうなっているのか、と考えたことは、誰にもあるのではないでしょうか。ペットとして飼われているネコやイヌも、何故、人間のそばで暮らすのか、不思議に思ったことはありませんか。生き物はそれぞれに独自の進化を遂げ、それぞれ独自のしくみを築き上げてきて、今の姿や行動をしています。それは、ごく単純な生き物でも、同じことであり、たとえば、細菌と括られる単細胞生物でも、さまざまに複雑な行動を示すことができ、それを実現するために必要となるしくみを築き上げています。ヒトを始めとする多細胞生物が、複雑なしくみをもち、さまざまな行動を示すことは、周りを見渡せばすぐに解りますが、顕微鏡という道具を使わなければ見えない、たった一つの細胞からなる細菌も、基本的な行動をするために必要となるしくみは、もっているのです。

 私たちの研究室では、細菌を使って、生き物がもつ複雑なしくみを解き明かそうとしています。研究室で使う細菌は、大腸菌とかサルモネラ菌と呼ばれる、ヒトなどの動物の腸の中で暮らす腸内細菌です。それらの多くは、べん毛と呼ばれる運動器官をもっており、タンパク質が集まってできたべん毛と呼ばれるらせん状の繊維を回転させることで、水中を泳いでいます。生き物がもつ運動器官で、回転するものとして知られているのは、唯一べん毛だけで、回転する生き物の器官も、他に一つか二つ知られているだけです。こんな所から、世の中で回転するものは、人間の発明した車輪だけと長く信じられていましたが、40年ほど前にべん毛が回転することが証明されて、研究者達は自然の叡智に改めて考えさせられたそうです。

 べん毛を回転するしくみの解明は、私たちの研究室のテーマの一つです。回転する機構は、小さな頃に遊んだプラモデルの車や船につけたモーターと似ています。おもちゃのモーターは電池をつなげて回しますが、べん毛のモーターは電気の流れではなく、イオンの流れによって回っています。大腸菌やサルモネラ菌は水素イオン(プロトン)の流れによって回っており、この流れをつくり出す力をプロトン駆動力(proton motive force:PMF)と呼びます。細胞内外の水素イオン濃度差(ΔpH)と膜電位によって駆動力は決まり、通常条件では、一秒間に200回転という高速で回ります。このしくみを解析するために、多くの研究者は一分子計測で培った計測技術を用いて、研究を進めていますが、私たちは少し違った視点から研究を進めています。それは、機能を失ったり、調子が悪い性質をもつ、突然変異体を利用して、研究を進めるのです。本来の状況で解析をすることも大切ですが、性質を探る上で、その一つに欠陥のあるものを調べることは、多くの重要な知見を与えてくれます。中でも、回転するための力は十分にだせるのに、その速度が低い突然変異体は、回転のしくみ、特に、回転の一つの段階にかかわる反応を解き明かすのに、重要なきっかけを与えると期待しています。

 べん毛が回転することが明らかになるまでは、別のしくみで運動していると考えられていました。それは、らせん形のべん毛が形を変え、それによって推進力を得ているというものでした。半世紀近く前に、日本でべん毛の研究を始めた人々は、それまで筋肉の運動を解析する研究をしていました。アクチンとミオシンの二つのタンパク質の間での滑り運動が、筋肉を動かしていることが明らかになる中で、彼らはべん毛がフラジェリンと呼ばれる一種類のタンパク質からなり、それをもつ細菌が水中を泳ぐことから、たった一つのタンパク質が運動を司っているということを魅力と考え、研究を始めたのでした。べん毛が形を変えることが、運動に関係すると考えたのは、泳げなくなった突然変異体が違う形のべん毛をもっていたからですが、それがタンパク質の性質の違いによるものであり、実験条件を変えることで形を変えることができることなど、さまざまなことが明らかにされました。しかし、その後に回転の事実が明らかとなり、独自の運動機構は否定されてしまいました。

 べん毛が形を変えることは、これを私たちはべん毛の多型変換と呼んでいますが、運動そのものを引き起こしているのではない、ということが示されましたが、多型変換は、実は、細菌の遊泳において重要な役割を担っていることが明らかになりました。べん毛モーターは、単に一方向に回転するだけでなく、両方向に回転し、その転換頻度を調節することで、細菌は真直ぐに泳いだり、一時停止をして泳ぐ方向を変えたりすることがわかりました。この行動様式を用いることで、単細胞生物である細菌も、好ましい環境に向かい、好ましくない環境から逃れることができるのです。セリンやアスパラギン酸などのアミノ酸を代表とする誘引物質は、その濃度が高くなる方が好ましい環境となり、濃度勾配を上がって行く時には、なるべく方向を変えないようにします。逆に、ロイシンというアミノ酸やニッケルイオンは忌避物質と呼ばれ、その濃度が高くなる方が好ましくない環境となります。ここでは濃度勾配が上がって行く時には、なるべく方向を変え、勾配を下がる時には方向を変えないようにします。このしくみもかなり明らかになりつつあり、リン酸化やメチル化というタンパク質の修飾が関わるなど、興味深い反応が見られます。これが始めに書いた、細菌も行動に必要なしくみをもつということなのです。

 べん毛モーターがある方向に回っていると、らせん形のべん毛が回転して、そこから推進力が生まれ、細菌の体を押して行きます。細菌が棲む小さな世界では、水の粘性力が大きな要素となり、私たち人間の世界での慣性はほとんど無視できます。だから、細菌が泳ぐためには、モーターは同じ方向に回り続けなければなりません。それが逆に回ると何が起きるのでしょうか。推進力を失った細菌は、その場で急激に停止します。その時、逆に回されたべん毛はどうなるのでしょう。通常のべん毛は、左巻きらせん形をしています。これはノーマル型と呼ばれるのですが、逆に回るとべん毛の形が変わり、右巻きらせん形の一つであるセミコイル型となります。そこで推進力を失いますが、その後更に形が変わり、同じ右巻きらせん形のカーリー型になります。このとき、一時的に推進力を回復するとの観察があります。いずれにしても、モーターが元の回転方向に戻ると再びノーマル型に戻ったらせん形のべん毛は推進力を回復して、前と同じように泳ぎ出すわけです。でも、一時停止をした後の泳ぐ方向はランダムに決まるので、全体としては方向転換するということです。

 では、何故、べん毛の形を変える必要があるのでしょう。推進力を失ったべん毛には、逆方向に向かう力がかかり、絡まってしまうからというのが理由だと考えられています。だとすれば、べん毛の多型変換は、理にかなった現象と言えるのではないでしょうか。これが今でも多型変換の研究が続けられている理由の一つです。でも、それだけではありません。タンパク質が形を変えるという現象そのものに、多型変換が関係しています。一つ一つのタンパク質の形は、現在の技術では直接観察することはできません。しかし、べん毛のようにフラジェリンというタンパク質が集合した構造では、光学顕微鏡でその形を観察することが可能になります。これを使えば、間接的とはいえ、タンパク質の形の変化を観察することができるのです。このしかけを使って、多型変換のしくみを探れば、構造変化と環境の関係などが明らかにできるかもしれません。

 具体的には、モーターの時と同じように、突然変異体を利用します。べん毛の形が変わることで、泳ぐことができなくなった変異体から、泳ぎを回復したものを取ります。これらを復帰突然変異体(リバータント:revertant)と呼びますが、多くのリバータントは元の変異体の変異箇所とは違う場所に新たな変異を起こしています。私たちの研究室では、直線形のべん毛をもつ変異体やカーリー型のべん毛をもつ変異体から、多くの復帰突然変異体を取り、その変異箇所をDNA配列解析によって確かめました。その結果、べん毛の形を決めるのに関係するアミノ酸を特定することができました。ただ、これらはまだ候補に過ぎず、これからさらに研究を進めていく必要があります。

 これらの研究によって、タンパク質がはたらくしくみを明らかにすることは、生物から学ぶことができる大切な事柄です。これを基礎として、ナノメートルの世界で起きている現象を理解することができるでしょうし、その知識を使って、人間の役に立つものを作ることができるかもしれません。

元教授・大澤研二